「日本国憲法をつくる過程に関わった登米市出身者がいるらしい」。 そんな情報が同級生から届いた。大崎市の吉野作造じゃないの、と苦笑しかけたがさにあらず。その人物は、岩淵辰雄(いわぶち・たつお)。 1892(明治25)年生まれ、1975(昭和50)年没の政治評論家・ジャーナリスト。 現在の登米市米山町善王寺の出身で、善王寺小学校、旧制佐沼中学校を経て早稲田大学に進み、中退。(同級生談) 調べてみると、この人物は戦前から戦後にかけて、日本政治のかなり重要な場面に登場していました。 吉田茂とともに憲兵隊に捕らえられる 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年4月15日、岩淵は後に首相となる吉田茂、近衛文麿の秘書だった殖田俊吉らとともに憲兵隊に検挙されました。 吉田らは、戦争終結への道を探っていた近衛文麿の周辺にいた人々で、憲兵隊から「ヨハンセングループ」と呼ばれていた。「ヨハンセン」とは「吉田反戦」をもじった呼称だったそうな。 岩淵は単なる政治評論家ではなく、近衛や吉田ら政治中枢の人物と直接つながりながら、戦争末期の政治に関わっていたようです。 敗戦後、憲法研究会へ そして終戦後、岩淵辰雄は日本国憲法の制定史に名前を残すことになります。 1945年11月、民間の知識人によって「憲法研究会」が結成されました。 メンバーは、高野岩三郎、馬場恒吾、杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄、室伏高信、鈴木安蔵の7人。 この研究会は同年12月26日、「憲法草案要綱」を政府に提出するとともに公表した。 そこには、「日本国ノ統治権ハ日本国民ヨリ発ス」という国民主権の考え方をはじめ、男女平等、言論・学術・芸術・宗教の自由、そして、「国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス」という生存権につながる規定まで盛り込まれていました。 この草案はGHQにも渡り、翻訳され、詳細な検討が行われたことが国立国会図書館などの資料から確認できます。 現在の日本国憲法をGHQだけが一から作った、と単純に考えることはできません。その成立過程には、日本側でもさまざまな憲法案がつくられ、そのひとつとして重要な位置を占めたのが憲法研究会の「憲法草案要綱」でした。 読売新聞の主筆にも 戦後になって、岩淵は読売新聞の主筆を務めています。1946(昭和21)年6月から10月までという短期間とはいえ。 国立国会図書館に...
登米懐古館、登米大橋、そして現在も続く奨学会。 とよまのなかに残るこれらをたどっていくと、渡邊政人(わたなべまさんど)という一人の人物につながります。 1892(明治25)年、登米町日根牛に生まれ、のちに実業界で活躍した人物です。 『みやぎの明治村 とよま資料館だより』第20号を読んでいて気になったのは、彼が故郷に遺したものの多さだけではありませんでした。 文化財を残す。橋を架ける。若者の学びを支える。 一見ばらばらに見える三つの仕事を、渡邊政人はなぜ故郷・とよまで行ったのでしょう。 「報恩感謝」から生まれた懐古館 1953(昭和28)年、登米町開府350年祭の記念行事として「登米町文化財展示会」が開かれました。町内から集まった展示品は339点。刀剣、鉄砲、甲冑、陣羽織、馬具、書画など、多くの文化財が個人の家々に所蔵されていました。 これでは火災や盗難によって失われるかもしれない。博物館のような建物をつくれないか――そんな声が町民から上がります。 ちょうど古稀を迎えていた渡邊政人は、故郷への「報恩感謝」として、自ら収集してきた郷土ゆかりの財産など111点を町へ寄贈しました。 しかし、収蔵する建物をつくる財源が町にはありません。そこで建物の建築も渡邊に依頼し、町が寺池城址の一角を敷地として提供。1961(昭和36)年、登米懐古館が開館しました。 ここで渡邊が遺したのは、111点の文化財だけではありません。それらを 町の記憶として残していく「場所」までつくった ことになります。 橋を架ける 北上川にはかつて、寺池荒町と日根牛宿小川の間を結ぶ木造の 舟橋、来神橋 がありました。 これに代わる鉄筋コンクリート橋の建設は1937(昭和12)年から予定されていましたが、日中戦争によって中断します。 町長らが相談したのが、当時、鉄鋼関係の要職にあった渡邊政人でした。 渡邊は、太平洋戦争が三陸沿岸に及んだ場合、北上川を戦車が通行できる橋がないことを関係官庁に説明し、陳情を重ねます。その結果、資材を確保する道が開かれ、1945(昭和20)年5月、戦時下で登米大橋が完成しました。 現在も使われている橋の背景に、こんな経緯があったことは、橋を渡るだけではなかなか見えてきません。 次の世代へ 渡邊政人が故郷に遺したものは、建物や橋だけではありません。 1964(昭和...